豆知識としてレースの歴史を少し詰め込みました(随時更新)
レースの歴史は古く、中世から「糸の宝石」と呼ばれ、遡って15世紀のヨーロッパで、実用的な用途で使われる飾り紐を、一般家庭の中で作られた事から始まりました。16世紀に入って、装飾目的でのレースが本格的に誕生し、各地で様々な作成方法と道具が生まれました。
歴史と言えば、SNSでも知られているタイムライン的な表示が、一番理解し易いですので、以降はタイムライン式に書きましょう。
紀元前1500年のエジプトで既に使われていた
歴史的な遺跡や遺産からわかって来た事ですが、紀元前1500年頃には、エジプト人やローマ人の羽織るトーガなどの裾に、編み状のレースや刺繍レースが施されていました。人が支配する側と支配される側は明確になるに連れ、衣服の装飾であるレースは身分や階級を示すものとしても、役割をしていました。
2~3世紀 ボビンレースの発見
エジプト(コプト)の遺跡から、糸を巻いたボビンとレースが発見される事によって、かつて16世紀ヨーロッパから発祥されたと言われるレースの歴史が刷新されました。
ボビンレースとは、複数のボビンに糸をそれぞれ巻き、織物技術に似た糸運びによって、織られるレースの事です。模様を作り出すには型紙、ピンボード、複数のピンが必要で、非常に多くの労力と時間を要します。
古代のエジプトでは、どんなレベルのボビンレースが作られていたのか、どれほど日常に広がっていたかは、まだわからない事が多くあります。筆者はその煩わしさから興味を持つ事は出来ませんでしたが、知識としては知って置きたいので、現代に伝承されているボビンレースの詳細とその仕上がりレースの画像を新しく下記のページに纏めました。
「画像で見るボビンレースの道具と織り方と仕上がり」
8世紀 方円彩糸花網
8世紀半ば頃のものと推測されていますが、中国で制作されてた「方円彩糸花網」と呼ばれるレースが、日本最古のレースとして、唐招提寺に現存しています。
唐招提寺側の公式ページでは、「白瑠璃舎利壺を包んで保護していたレース」と説明していました。この図案には何らかの意図があると思われますが、研究している組織や大学もあります。
装飾としてのレースを除き、エジプトやローマの階級表示同様、神仏に使われるレース模様にも、人々の願いや意志が存在している気がします。
13~14世紀 組紐とブレード
この当時のイタリアでは、亜麻を使ったボビンレースのブレード(帯状になっているレース)が商品化され、前述したエジプトのボビンレースが発見されるまで、ボビンレースはイタリアで考案されたものと考えられていました。
ボビンレースの出現により、家庭内の日用品も、服飾も、段違いほどおしゃれになって、芸術性が高まって行きましたが、それまで、ファッションに美意識がない訳ではありませんでした。ヨーロッパ貴族の衣装は、襟元や裾などに、組紐を使って飾っていました。
組紐はまた、一般家庭でも作られるようになっていましたので、組紐の歴史はそのまま世界各地に、現代にまで伝承されていました。組紐についてのページはこちらにあります。
「組紐について知っている事と知らなかった事」
15世紀 レースブレードの発展とドロンワーク
フランスでは、レースの前身である組紐が多くのファッションに取り入れ始め頃で、ブレードも組紐の商人によって、扱われるようになり、衣装や日用品の縁飾りに使われる事がメジャーとなって行きます。
15世紀のイタリアでは、レースブレードの他に、恐らく後述のカットワーク同様、刺繍師たちの間でレースの人気に後れを取らない様、生地の糸を抜いて、刺繍の技法で碁盤縞の生地を作り、模様を描くドロンワークも発祥されました。当初やはり縁飾りが殆どでしたが、現在は作品全体に施すものが多くあります。
ドローンワークの工程と仕上がりが目で見てわかるような画像を、Pintrest から引用してみましょう。
上記作品の中央部分はドローンワークで、縁飾りはトーションレースと思われます。ドローンワークに必要なのは、簡単にほつれないしっかりとした織り目の生地です。それでもボタンの穴を想像すればわかりますが、耐久性が弱いので、飾り物や置物に使われる事が多いです。だたし、これはニードルレースへ発展する為の、必要な一歩でした。
15世紀では、まだ大きな装飾品としてのレースは見られなかった時代ですが、「レース」と言う用語は、英語の靴紐、組紐、ボビンレースのブレードに由来しているものです。
16世紀 刺繍レースとニードルレースの出現
装飾品としてのボビンレースは、1520年代半ばのイタリアのヴェネツィアとフランドルのアントウェルペン界隈で、時期を同じくして発祥したとされています。
オランダの一部、ベルギー西部、フランス北部、イタリアのヴェネッツィアではボビンを使ったレースが考案され、やがてヴェネッツィアでドローンワークやカットワーク、レティセラが発展し、ニードルレースが生まれました。これらのレースはまたヴェネッツィア商人によってヨーロッパ全域に広められ、しいては歴史の中で、政治にも影響を与える力を持ってしまったのです。
上記画像のカットカットワークも刺繍レースの1種とされ、1540年代にはヴェネツィアの刺繍師たちにより発明され、生地をはさみで模様の切り抜きをし、細かい刺繍を施す方法で作成されました。特に当時レース業界のトップであるヴェネツィアのカットワークをレティセラと(reticella)呼んでいました。レティセラは1620年まで、ヨーロッパ王族のファッションを飾っていました。
レティセラレースの骨董品と称して、ネット沢山出回っている様ですが、本当のレティセラの画像は殆ど見当たりませんでした。アンティークドール専門店で一枚だけ、それらしきものがありましたので、引用させて頂きます。
こちらはボヘミア女王の若きエリザベス王女時代の絵画で、王家のコート襟にレティセラが使われていました。
ニードルレースもまた現代まで、独自の発展をしてきていました。ニードルレースはわりと今でも親しまれていて、種類や見本となる画像を別ページに特集しましたので、リンクして置きます。
「針と糸だけで作られるニードルレース」
上記ページは技法とイメージを中心に作っていましたので、歴史的な補足は下記17世紀に付けたしをしています。また、タッティングレースの基礎技術がこの時期のイタリアで出来ていると言われますが、17世紀まではずっとボビンレースとニードルレースの陰にいました。
この時代では、大きい作品に刺繍レースが多く用いられるよういなりました。刺繍レースはレース編みとは別に発展し、現代の刺繍レースを紹介しているサイトがありましたので、詳しく知りたい場合はリンク先へどうぞお越し下さい。
17世紀 プント・イン・アリアとグロ・ポワン・ド・ヴニーズとポワン・ド・ネージュ
1620年頃から1650年頃にかけて、最高クラスの技術と美しさをもっていたプント・イン・アリアが、ヴェネツィアのレース工によって考案され、これまでのカットワークは生地を芯にしていたが、羊皮紙を芯にレースを作成した後に、羊皮紙を取り除くので、美しいレースだけが残ると言うものでした。
これは、ニードルレースを革新的に飛躍させるきっかけとなり、針と糸だけで、美しいレース模様を作る事ができる技法へと進化しました。
1650年頃から1670年頃までは、グロ・ポワン・ド・ヴニーズが流行を支配し、バロック様式による形態の肉付け、遠近法、リズミカルな力強さを、東洋から植物装飾のテーマの繰り返しを取り入れ、レースを静的な印象から、動きのあるものにして行きました。
この時期まで、「糸の宝石」と言う別称がある高級品であるレースの殆どは、ヴェネツィアでしか入手できませんでした。フランスでも大規模な産業として存在していましたが、はっちりとしたスタイルを持たずに、通商も遅れを取っていました。
ルイ14世の大蔵大臣であるジャン=バティスト・コルベールは輸入レースの使用を規制しても、人々のおしゃれ心を止める事が出来ず、1665年にとうとう組織改革に乗り出し、地方官吏に補助金をばら撒き、各地で「王立レース製作所」を設置し、グロ・ポワン・ド・ヴニーズの模造品を作る事に尽力しました。
1670年頃まで、フランスのレースもヴェネツィアのレースと見分け難いほど、成果を上げる事ができました。
1670~1690年、フランスは国営のレース製造所ポアン・ド・フランスの生産拠点を、良質の麻が取れたベルギーに移し、ポワン・ド・フランスとして、認められる作品が作れるようになりました。
ポワン・ド・フランスは、装飾要素を強調する技法を守りながら、ヴェネツィアのポワン・ド・ヴニーズのレリーフを取り除き、周辺にピコットで装飾し、六角形の大きな網目模様で整然としたデザインで構成されています。
王立レース製作所は後、18世紀までボビンレースを発展させ、やがて市場支配を確立して行きました。
1680年頃に創作されたポワン・ド・ネージュは、ヴェネツィア最後のレースとなりました。ピコットのある輪郭に、非常に小さいモチーフをつけて、雪のような印象を特色として出しました。
17世紀はヨーロッパのレース全盛期でした。中でも、ニードルレースの発展は飛躍的と言えましょう。
また、この時期のフランスにおいて、制作された一定サイズのレースとレースを繋ぐのに、鈎針を使うようになっていました。この事がきっかけとなり、次第に鈎針だけでレース編みが出来る試みが広がり、鈎針の事を「クロッシェ」として知られるようになり、鈎針編みはフランス発祥の様に思われています。
しかし、かぎ針編み自体は前世紀のスコットランドで、「羊飼いのフック」と呼ばれ、羊のウールを編んだものを「羊飼いの編み物」として日常に使われていた事が、後に分かるようになり、残念ながら正式な文献がない為に、未だかぎ針編みの歴史上の起源は明確にわかっていません。
18世紀 タッティングレースの発展とかぎ針編み
流行が大きく変わり、よりしなやかで軽やかなレースが好まれるようになって行きました。1770年頃、社会思想の変化による服飾流行の変化が、レース需要を減少させ、レース産業に大きな影響を及ぼしました。
かのマリ・アントワネットもレースの愛好家でありましたが、皮肉にもフランス革命の要因の一つとなってしまいました。
1789年のフランス革命以降、レースは人の目に触れない下着に使われたり、作り方も単純化して行き、本格的なレースは作れなくなっていました。
フランス以外のヨーロッパ諸国の宮廷では、身分ある女性の嗜みとして、タッティングレースの習得が、タッティングレースの発展を促しました。タッティングレースはニードルレースから派生したもので、シャトルと糸だけで作成でき、馬車の移動などでも時間を利用できるのがいいとされていました。
タッティングレースの発祥は16世紀のイタリアと言う説がありますが、確かにその頃はイタリアでニードルレースの発祥が認められていました。ただ全盛期の刺繍レースなどの影となり、タッティングレースの装飾的レースの起源は明確にわかっていません。
イギリスでは、産業革命によって、レース機械が発明され、複雑なレースが安く大量生産されるようになり、手作りレースは次第に衰え、現在では高級な手作りレースを作れる人はほぼいなくなり、東南アジア製品や観光客向けの工房によって、安価でシンプルなレースが細々と残っているだけになってしまいました。
手作りの高級レースに変わり、機械レースが安価で大量に作られるようになり、日本でもレースと言えば、機械レースを指す事が一般的になり、手作りレースは一部愛好家の趣味の世界となっています。
一方、この時期には、鈎針による編み物のテキスタイルが現れるようになり、独自に発展していました。
18世紀半ば、ドイツで生まれた大きな特徴があるブリューゲルレースは、現代でも愛好者が多く、極めて合理的な構成で、初心者から編めるようになっています。基本は長編みと鎖編みだけのテープを使って、自由線を描きながら繋げる事で様々な模様を織りなす魅力を見せてくれます。ブリューゲルレースは筆者も好ましく思っており、特集ページを作っていますので、興味がある方は、ぜひお立ち寄りください。
「鈎編み初心者から作れるブリューゲルレース」
19世紀 飢饉を救ったかぎ針編み
機械レースが主流となっている時代です、手作りニードル・レースの職人がほぼいなくなり、趣味や愛好家が簡単なレース模様をほそぼそと継承している中、鈎編みの分野で新たなレースが誕生します。
一般的なフラット編みのレースや、幾何学模様のモチーフをメインとした鍵編みの中でも、大きな特徴があるアイリッシュクロッシェは、3D編みの世界の始まりと考えられます。これまでの規則正しい平面的な織り模様と異なり、厚みのある無規則な曲線から織りなす大小異なるモチーフを、ひたすら鎖編みでネット状に繋げていきます。極めて芸術性が高く、ソーシャル業界で多く使われて来ました。
19世紀後半は、化学繊維が増えて来ていることもあり、その特性を活かせる作品を日々模索され、日本の鈎編みアクリルたわしが一大ブームとなって、世界中で見られるようになりました。
20世紀 3D編みへの進化
鍵編みの新しい技法として、ヘアピン編みが普及しました。ヘアピン編みの歴史は古いと言う説明ありますが、ネットで検索したアンティークレースの写真を見ると、アルメニアン・ノット・レースのアンティーク作品を写真に挙げているものが多かったので、残念です。 歴史的にヘアピン編みに関する文献はまだ見ていませんが、本格的に人気を呼び、大いに流行したのは20世紀の後半です。
同時に、可愛い編みぐるみがきっかけとなって、タティング、クロッシェ、ニードル・レスなど各分野から、3D編みが流行しました。編み物がアートの分野へ徐々に浸透して行きます。